3・11あの時。これから。
3・11
8年前は、
カウンセリングスクールのセミナー前日だった。
あの頃の私は、独身で東京に住んでいて
前年は無職で1年過ごし、
再就職活動で年明けから契約社員で働きだしていた。
今思い返すと、独り暮らしでの震災は、
阪神大震災の時もそうだった。
違ったのは、
一度体験していた、ってことなのかもしれない。
3・11も、
いつも持ち歩いている500mlの水と
チョコの入ったバックをもって、
歩き慣れた道を歩いて帰宅した。
阪神を経験してから、
自分の住まいや勤務先が変わるたびに、
徒歩で帰るためにまず地図を見て、
実際歩いてみるというのをやっていた。
東京のど真ん中の自転車屋さんは長蛇の列で、
昼間は走っていた車道には、
車が走らなくなっていた。
帰宅途中にあるコンビニに入って、
持てるだけのパンとおにぎり、
水と生活用品を買って帰った。
その頃、mixiが盛んで、でもネットは繋がりにくくて。
たまたま見つけたスクールのお友達が
「勤務先から帰れない」の呟きを見て、
「うちに来る?」とコメントして、連絡が取れて、
一番早く復帰した都営線で、
我が家に来てくれた。
独りよりも誰かがいてくれて、本当に心強かった。
その夜は、パソコンで火の海の街や、
津波の画像を目の当たりにした。
どんなことが起こっていたか、
初めて知った夜だった。
土日のセミナーは中止になり、
スクール仲間と連絡を取って、
土曜のお昼に都内でご飯を食べに行った。
レストランは、何もなかったように営業していた。
電車の運行も再開し、
みんなそれぞれ自宅に戻って、
私の身近では変わらない月曜日を迎えようとしていた。
阪神大震災の時も、私は同じ状況だった。
大阪のファミレスで、
同期の友人とご飯を食べていた。
独り暮らしの友人たちが、
寄り添って時間を過ごしていた。
それでも、翌日には仕事場へ行くことが出来た。
今も機会があれば良くお話ししている、
仕事場のあった大阪の南港から
海の先に見えた燃え盛る長田の街を、
泣きながら見るしかなかった私。
その上空では
マスコミのチャーターしたヘリコプターが何台も行きかい、
でも消火活動ではなく、
ただ映像が流されて、炎は小さくなることがなかった。
何もできない、どうしたらいいのか。
そんな気持ちでその光景を対岸で見ていた。
今も忘れられない光景の一つ。
三か月後の6月12日。
友人を訪ねて気仙沼に行かせてもらった。
新幹線が動き始め、
友人が駅まで迎えに来てくれた。
その友人は、
震災後数日たって、電話をくれた。
生きているかどうなのか、
みんなが心配し気になりながらも、
どうしたらいいか分からない中、
着信に友人の名前が表示されたときは、
泣きそうになった。
「生きてるよ」
そう聞きなれた声が話した。
心の奥の奥が震える感覚がして、涙は出なかった。
当時の状況を話してくれた。
本当に少しの偶然が重なって重なって、
そこに居た。
必要なものを聞き、発送をした。
日が過ぎるにつれ、
救援物資で求められるものも変化して、
時の流れと様々な支援の手を感じたこともある。
3か月後に行かせてもらった海のそばの街の姿。
元を知らないので、
その違いがどれだけのことか?が
その時は分からなかった。
車で瓦礫の街を見せてもらいながら、
いろんな話を聞かせてくれた。
そして、住んでいた家の前に連れて行ってもらった。
骨組みだけが残り、
あとは無残なモノだった。
そして高台のお家に連れて行ってもらい、
一緒に行った仲間とともに外食で夕飯を食べ、
話して、たぶん初めてお酒を飲んで立てなくなった。
そんな夜だった。
毎年、3・11の報道があるたびに、
その友人を思い出す。
そして師匠が話してくれた
残されたモノの罪悪感
の話を思い出す。
生き残ってごめんなさい。
私だけ無事でごめんなさい。
家が残ってごめんなさい。
阪神大震災を経験した師匠は、震災後すぐは
そんな苦しみが溢れてしまうのだ、と。
8年たった。
時間の経過とともに
人の記憶は薄れ、都合よく書き換わり、
東日本大震災の後にも様々な災害が各地でおこって、
それぞれの被災地への熱量が分散されていく、
そんな思いも浮かんでくる。
自然災害の報道がされるたびに、
阪神大震災も東日本大震災も思い起こす。
私が経験したことだけだけれど、
あの時の自分を思い出す。
そしてそのたびに、
私は何が出来るのだろう。。。
と振り返る。
立ち止まって、改めて前を見る。
私には何が出来るだろうか。
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